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文庫版「Burn.-バーン-」でぶん殴られた

 

加藤シゲアキさんの3作目の小説「Burn.ーバーンー」文庫版が7月25日に発売されました。各所で売り切れているみたいで、書店に「加藤シゲアキ」って書かれた本が平積みされているっていう事実が嬉しくってうきうき!

加藤さんに影響されがちなわたくしは今回もやはり影響を受けて、というか加藤さんの小説にぶん殴られたみたいな気持ちになって、あれやこれや印象に残った部分をブログを書くことにしました。あやめの時もだけどいつも加藤さんの作品は私をぶん殴る。(というか勝手にぶん殴られてる)(むしろほっぺた突き出してここよ!ここ!って待ってる勢い)(シゲ逃げて)(またシゲ担って言われる)(私は増田担)(こうやってまた遊ぶから言われる)

帯には「魂を燃やせ!孤独な少年と奇妙な大人。擬似家族の奇妙な絆の物語。」と書かれています。人気演出家であり、かつては天才子役とまで呼ばれた主人公レイジ。華やかな世界で輝きながら実はいじめられ孤独を抱えていた幼い日のレイジが、ホームレスの徳さんとドラッグクイーンのローズとの出会いによって変わっていく小説です。

以下内容に踏み込んでおります。

 

 

 

「缶ジュースは1本110円」という言葉が天才だと思ったっていう話をしてもいいですか?

だめでもしますけどいいですか?(押し売りのスタンス)レイジが徳さんに千円札を渡して、徳さんが缶ジュース6本と、いくらかせしめてお釣りを返すシーンがあります。レイジは徳さんから帰ってきた小銭をみて、缶ジュースの値段と照らし合わせてありゃおかしいなってなるんですけど、私が見落としていなければ、ここではじめて20年前がいつなのかはっきりしているはず。缶ジュースが110円だったのって1992年〜1998年の7年間しかないんですって。100円だった缶ジュースが92年には110円に、98年に120円に、14年に130円になる。だから、「缶ジュースは1本110円」はレイジと徳さんとローズの3人の時間がまさにその7年間の間のどこかの渋谷に存在していたということを示していて、どんな言葉よりも背景をくっきり浮かび上がらせて色付ける言葉だと感じてぞくぞくしました。大体同じ年齢層の私も自分の記憶が蘇ってきて、車道を走る車の車種とか、道行く人のファッションやメイク、LEDではないネオンの赤さ、あの時代の空気感、子どもの手で100円玉と10円玉を持った時の大きさの違い、温度の違い、小さな背の丈から見ていた世界がぶわあっと思い出されました。変化していく時代の流れの速さの全てが「缶ジュースは1本110円」に詰まっている気がしたんです。何の気なしに書かれた一文かもしれないし、他にもたくさん心に残った場面や言葉はありますが、たった一文でこんなにも背景が広がるのかと。

まず一発。

 

強い者いじめと社会的弱者とマイノリティと

レイジっておそらく社会的には勝ち組と言われる人なんだと思うんです。父親はいないけれど母親は美人で目立つ仕事をしていて、経済的に裕福で、年齢の割に知識量も単語量も多くて、周りを理解している。頭もよくて、顔もよくて、天才子役として世間一般から人気がある。

だからいじめられる。

いじめには弱い者いじめもあるけれど、強い者いじめもあると思っています。どちらも集団から抜きん出た存在だから。頭のいい人ってうまく切り返すし、ちょっとやそっとで揺らがないから、何を言っても大丈夫だと思い込んでびっくりするほど強い言葉をぶつけていたり、勝手に◯◯だから、◯◯なのにと価値を要求したり。必要な時だけその人の言葉を上手く使おうとする人もいる。相手が優れていると褒める皮をかぶって嫉妬をぶつける。自分の弱みを盾にして傷つける。てっぺんに立つ人は孤独。レイジも、孤独だった、はじめは。

そんなレイジが人間らしさを取り戻すきっかけとなった2人は、ホームレスの徳さんと、おそらくセクシャルマイノリティでありややアウトなお店のママであるドラッグクイーン、ローズです(どう表現するのがいいのか分からなくて傷つけていたらごめんなさい)。社会的には少数派。それこそ渋谷再開発浄化作戦や取り締まりという大義名分のもとで存在が脅かされてしまう、社会的には弱い人達なのかもしれない。しかし、なんとも豪快に生きている。かっこいい。

2人とも(最終的にはレイジも含めて3人とも)とても自分に正直に、自由に生きているけれども、人を傷つけず、やりたいことをやり、相手の問題は相手に任せ、自分のやった結果には最後まで責任をもつ。自分の人生に責任を持って生きている人って年齢とか性別問わずかっこいい。人としてのかっこよさとか魅力と社会的立場とか肩書きは関係ないよなあと、当たり前だけど思ったのです。

二発目。

 

生きることと死ぬことと円環と

 文庫版Burn.が発売されたのは加藤シゲアキ主演のグリーンマイルという舞台のFC枠当落発表の日でした。何年も前に書いた舞台を題材にした小説の文庫版が、自身が主演する舞台が決定したタイミングで出版される。なんの巡り合わせなんだろう。

Burn.のレイジも光を浴びて「ただいま」から「ただいま」へ巡る。出会い、喪い、別れる。そしてまた出会い、生まれ、別れる。時間も日も年も命も全てが巡りながらその中で生かされている。昔おむつを替えてもらっていた私は、そのうちおむつを替える立場になり、そしてまたいつの日にか替えてもらうようになる。人間も自然現象の一部でしかないことが、ぐさぐさくる。

レイジっていう名前も、日本語として聞くと冷たいイメージが強いし、英語だと燃え盛っているし、巡ってきて針が重なる零時かも知れない。重なって、また離れてそれぞれで進んで、レイジでまた巡り合う。

2017年の夏号として発売されたTRIPPERの中に、加藤さんの連載エッセイがあることはNEWSファンならご存知かと思いますが、そこで肉体について語る際に「円環」という言葉が出てきます。もう全部円じゃないですか。NEWSの記号を見ながら、加藤さんはやはり円だと思った。むしろ、円になってきたのかも知れないなぁとも。

三発目。

 

映像を作る人としての加藤シゲアキ

文章の読み方って二種類ずつの読み方を掛け合わせて四種類の読み方があるのかなと思うんです。「映像にするor記号にする」「音にするor音にしない」っていう選択を読む文章に合わせて組み合わせて読んでいる。例えば、私は英語が全然喋れないので英語の文章を読む時は「記号にする×音にしない」方法で完全に情報として処理するし、速く読みたいは日本語もそうします。音にして速く読むと面白い感じになっちゃう。小説だと「映像にする×音にする」が多いし、詩とかだと「映像にする×音にしない」。で、映像化されやすいかされにくいかってあると思うんです。やっぱり東野圭吾さんとか映画化される作家さんの小説って恐ろしいほど切れ目なく映像が浮かぶ。そして「Burn.」も恐ろしいほど映像が浮かびました。

お恥ずかしながら、加藤シゲアキさんの処女作「ピンクとグレー」は途中で諦めてしまってまだ読みきれていないダメ読者ですけれど。苦しそうなのとリズムが合わなくてどうにも。(途中までいったら読みやすくなるって助言を得てもう一回トライしようと画策中)しばらくして「閃光スクランブル」を読んだ時も、なんだかしっくりこなくて、これは加藤さんの書く文章が合わないんじゃないかとしばらく遠ざかっていました。それが、いつからか突然するすると読めるようになり、前述のTRIPPERでは立ち読みしたら面白すぎて思いがけず購入に至ったのですけれども。

本当に、全部の映像が繋がっていて、もはやこわい。同じ人が書いてる文章っていうのは違和感なくすんなり飲み込めるけど、過去2作と全然解像度が違うというか、こんなど素人が何言ってるんだよって感じですけど、今ならその宮下公園横の歩道に落ちてる缶の色が分かる〜〜〜って位に違う。徳さんが自分の身を焼くシーンとかあまりのリアルさに気持ち悪くなってページを飛ばそうかと思いました。

考えてみれば、作家として原作となる小説を書き、MVやコンサート映像では自ら案を出して時に監督をし、ソロ曲では作詞作曲もし、歌手として自ら歌い、俳優として演じられるんだから、きっと加藤さんの頭の中には音も光も匂いもあるはず。そしてそれが文章に現れてきても何らおかしくはない。過去のブログでも書いたけれども、身体が使うほど動くようになるように、書くことを続けることで表現の力も上がるのかなあ。

加藤さん主演で、映画にならないかな。舞台もいいな。なんだろ、豊川悦司さんの徳さんがみたい!本当に映像になったら見応えあるんじゃないかなあと素直に思います。

四発目。

 

 

もうぼっこぼこです加藤さん。正直最初は好きなグループのメンバーだからって小説買った部分があったのも本当だけど、今なら題名も作者も隠してもきっと加藤さんの書く本を選ぶと思う。

すてきな小説をありがとうございました。次の作品を楽しみにしています。

 

 

Burn.-バーン- (角川文庫)

Burn.-バーン- (角川文庫)